なぜワタナベくんとレイコさんは寝たのか? ー私的『ノルウェイの森』解釈ー

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

前回、映画「ノルウェイの森」の感想で、最後にワタナベくんとレイコさんが寝るシーンの解釈に違和感があった、ということを書きました。そのことについて今日はもう少し詳しく書いてみます。


なぜ違和感があったのか?もともと原作でもあの場面はかなり謎な展開で、「えっ、なぜ?」と思った読者は多かったはず。僕もその一人です。しかし繰り返し『ノルウェイの森』を読むうちに、僕なりにあの場面でなぜワタナベくんとレイコさんが寝なければならなかったのか、なんとなく理解できるようになりました。以下はあくまで僕なりの解釈です。


ノルウェイの森』の小説の前半部に、次のような印象的な一文があります。
「生は死の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している」
この一文は小説のなかで唯一太文字ゴシックで強調された部分であり、これがこの小説の重要なテーマ(のひとつ)であることが伺えます。この一文はキズキが自殺した場面の直後に書かれています。さてこの一文が意味しているのはどういうことか。
身近な人を亡くした経験のある人には理解してもらえると思うのですが、誰かが突然に亡くなったとき、その人が死んでいなくなったという事実をうまく受け入れられず、その人がまだ生きているような感覚にとらわれることがあります。その人はもうこの世にはいないのだけれど、自分の心の中では生きている。心の中でその人と会話したり、その人のことを思い出したり、その人が今一緒にいたら…と想像したりする。そんなとき確かにその人は僕たちにとって「生きて」いるのであり、決してこの世から完全に消滅してしまったわけではありません。つまり、そのとき「死は生の一部に含まれている」
それならば逆も然り。ときには「生が死の一部に含まれている」ことも起こりうる。生の世界にいるはずの我々がなんらかのきっかけで死の世界に足を踏み入れているということもありうるはず。生と死の世界の間にくっきりと境界線が引かれているわけではなく、その境界は常に曖昧である。ときにその境界は歪み、伸び縮みする。ときには生の世界が死の世界と入り混じり、一方が他方を呑み込むことがありうる。


村上春樹の小説の重要なモチーフのひとつに、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界、というものがあります。我々は普段「こちら側」で生きている。しかしふとしたはずみで我々が「あちら側」の世界に行ってしまうということがありうる。このことは例えば『ねじまき鳥クロニクル』では「壁抜け」と呼ばれていました(村上春樹はこの「壁抜け」というキーワードをその後のエッセイやインタビューでもしばしば使っています)。またその「壁抜け」の入り口の象徴として「井戸」がモチーフとして使われていました。また『スプートニクの恋人』では、ミュウやすみれがそれぞれの出来事を通じて「あちら側」の世界に移動してしまう、という印象的な場面が描かれていました。『海辺のカフカ』ではその構図はさらに複雑化し、登場人物たちは様々な意味(例えば時空間を超えて)で「こちら側」の世界と「あちら側」の世界を行ったり来たりします。*1同じく『1Q84』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など、並行世界が交互に語られるという村上春樹得意の物語においても、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界の並行関係(対立関係ではない)が物語の重要な構造となっています。


前置きが長くなりましたが、このような「こちら側」と「あちら側」の世界という構図が『ノルウェイの森』にも明確に見られます。ただし『ノルウェイの森』ではその構図が「生の世界」と「死の世界」という一点に絞られて物語られている点が他の村上春樹小説とは異なるところです。この小説の帯に「これは100%の恋愛小説です」というキャッチコピーが書かれていたことは有名ですが(村上春樹本人によるもの)、そのキャッチコピーがこの小説の表のテーマを成すとすれば、この小説の裏のテーマは明らかに「生と死の対比」です。この小説の中ではどんどん登場人物が死んでいく。まずキズキが死に、緑の父親が死に、ハツミさんが死に、最後に直子が死ぬ(ハツミさんは死ぬことが予告されるだけですが)。この小説を読んでいて死にたくなった、という感想を抱いた人は少なくなかったはず。物語の最初から最後まで、この小説にはずっと「死の匂い」が立ちこめています。それゆえ、表面的には「恋愛小説」でありながら、一文一文に不吉な予感に満ちており、読む者の心を暗く沈ませます(もちろん明るく幸福な場面もいくつもあるのですが、それでも)。


この物語のなかで特に「死」を象徴する存在であるのは直子です。直子はもちろん物語のかなり後半まで「生きて」いるのですが、その存在は小説の冒頭から既に「死」を色濃く予感させる存在です。物語の冒頭で、主人公が直子と草原を歩きながら会話していたことを回想する場面で、「もし私が深い穴に落ちて、それに誰も気付かなかったら…」という不安に駆られることがある、と直子が主人公に告白する。主人公は直子の不安を笑い飛ばそうとするけれども、直子は取り合わない。このやりとりからしてまず、直子が「死」に深くとらわれ、遠からず「死」に向かっていく存在であることが予告されています。直子は、ある意味でキズキが死んでしまった時点で、半分はすでに「死んで」しまった存在なのです。それ以降の直子は「こちら側」=「生の世界」でもはやうまく生きていけなくなってしまう。直子は「こちら側」の世界にいながら、半分以上「あちら側」=「死の世界」にいる。そのことが心の病となって表れ、直子は療養のために京都の山奥にある療養施設に入っていくわけですが、ここでその京都の山奥の療養施設は完全に「あちら側」の世界として描かれています。それはもはや「こちら側」の世界ではありません。*2


いっぽうでこの物語の中で「こちら側」=生の世界を象徴する存在は緑です。緑は小説のなかで一貫して、明るい性格の個性的なキャラクターとして描かれます。ただし、緑も楽しいだけの人生を送っているわけではない。むしろその逆で、幼い頃から家庭環境に恵まれず、物語の中で入院していた父親も死んでしまい、その逆境にもめげずに姉と力を合わせながら健気に生きている存在として緑は描かれています。その明るい無邪気な発言の裏には、悲しい辛い背景があるということが読者の心を打たせる要因になっています。*3


さて、「あちら側」=死の世界を象徴する直子と「こちら側」=生の世界を象徴する緑。主人公は、この二人の女性の間を行ったり来たりすることで青春の様々な葛藤を乗り越えていくわけです。そういう意味で、主人公のワタナベくんは「こちら側」と「あちら側」の中間領域にいる存在です。いわば「海辺のカフカ」君と同じ立場です(あるいは『1Q84』の天吾や青豆とも同じ立場です)。普通にこの小説を読んでいると、主人公のワタナベ君は直子だけを愛していると言いながら、緑にも惹かれて手コキをしてもらったり、他にも永沢さんに連れられて見ず知らずの女の子と寝たりして、なんてふらふらした奴だ!(羨ましい奴だ!)と怒り出したくもなってしまう男として描かれています。まぁ実際にその通りなのですが、それも「こちら側」と「あちら側」の間を彷徨う存在として、まだ自己のアイデンティティが定まらず、何者でもない大学生があちらこちらをふらふらと彷徨う存在として、描かれていると捉えれば少しはその立場が理解できるかもしれません(しかしその羨ましすぎる立場はやはり許し難いものですが)。

そして主人公と同じく「こちら側」と「あちら側」の境界領域にいるのがレイコさんです。小説ではレイコさんがなぜあの療養施設に入ることになったのか、その経緯が詳しく描かれていますが(この部分を映画でカットしたのは妥当なところでしょう)、レイコさんもやはり「こちら側」の世界で心に傷を負い、その傷を癒すために「あちら側」の世界にいるのです。しかし直子に比べればレイコさんはずっと「こちら側」の世界に近い場所にいる人で、それゆえにレイコさんは直子さんの面倒見役となり、主人公と直子を繋ぐ役割として存在しているのです。


以上が『ノルウェイの森』の基本的な構図と各登場人物の(こちら側の世界とあちら側の世界における)立ち位置の説明です。ここまででまだ書きたいことの半分くらいなのですが、いったん区切りとして続きはまた後日に書きたいと思います。

*1:河合隼雄が指摘しているように、タイトルにある「海辺」とは海と陸が入り混じる場所、海と陸の中間領域を意味する言葉です。主人公のカフカ君は、いろいろな事件を通して「こちら側」の世界と「あちら側」の世界の境界線上を歩んでゆき、最終的に「この世界の一部となる」ことによって成長を遂げていくのです。

*2:映画では主人公と直子とレイコさんしか描かれていませんでしたが、原作ではその他にも様々な「患者」が同じ施設の中で生活していることが描かれています。彼らは「こちら側」の世界からすれば「おかしな人たち」だけれども、「あちら側」の世界では必ずしもそうではない。「こちら側」の常識が通用しないけれども、どこか暖かみのある異次元の世界として、「こちら側」の世界に属しつつ、すでに「あちら側」の世界である領域として、その療養施設と京都の山奥は描かれているのです。直子は、この「こちら側」と「あちら側」の中間領域において、なんとか「こちら側」=生の世界に戻ってこようと努力する。しかしなかなかうまくいかない。主人公も直子を訪ねてその療養施設にお見舞いに行く。このとき主人公は「あちら側」の世界に一歩足を踏み入れている。その非現実的な感覚は、映画の中では非現実的に美しい草原や雪景色となって描かれていて、これらの場面は映像的にも美しく非常に良かったと思います。しかし、結果的にやはり直子は自殺してしまう。この場面以降の「死の悲しみ」の描き方も映画版は非常に良かったですね。ジョニー・グリーンウィッドの不吉な音楽と相俟って素晴らしい映像表現になっていたと思います。

*3:ちなみに映画では、緑を演じた水原希子は非常にキュートで好感をもちましたが、トラン・ファン・ユン監督の演出には疑問を感じました。水原希子が演技経験がほとんどない新人であるので仕方のないところでもあるんですけど、ほとんどの台詞が棒読みで感情がこもっていない。ただしそれは水原希子の演技が下手というのもあるけれど、トラン・ファン・ユン監督の意図として、緑を謎めいたクールな女の子として演出しようとしていたのではないかと感じました。しかしそれは原作における緑の印象とはだいぶ違う。原作の緑はもっと生命力に溢れていて、気取った感情を表に出さない喋り方なんて全然していません。常に奇抜でユーモアな発言(だけれども鋭く真実の一面を突く)で主人公を困らせ、戸惑わせ、生きていることを実感させてくれる存在として、緑は描かれています。そのような生の象徴である緑の姿が映画では十分に描かれていなかったのではないか。水原希子のルックスがとても可愛いだけに演技・演出が残念、というのが僕の印象です。