なぜサンデル本はヒットしたのか?

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]


2011年1月号の「BRUTUS」は「本。」特集で非常に面白かった。
なかでも、いとうせいこう×萱野稔人対談(サンデル本をめぐって)と、速水健朗さんの書いた自己啓発本に関する記事が興味深い。

いとうせいこう×萱野稔人対談は、昨年、サンデル本がなぜあれほどウケたのか、という話題から始まっている(マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』は人文書としては異例の50万部を超えるヒット作となった。実際どれだけの人が読んでるのかはかなり怪しいけど)。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


萱野稔人いわく、それは日本がもはやこれ以上(大きくは)経済成長しないことに皆が気付き始めたからではないか。そうすると限られたパイをどのように分配するか、という問題が浮上する(これまではパイを拡大することでその問題を回避できた)。そこにサンデルやロールズの「正義」論がはまったのではないか、ということだ。

さらに社会が経済成長を鈍化させる「成熟社会」の段階にはいると、人々は物質的な豊かさよりも精神的な豊かさや人間関係の豊かさをより重視するようになる。そこで「承認」が重要なキーワードとなる。グローバル資本主義が拡大した結果、家族・地域・会社などの既存のコミュニティが弱体化し、人間関係のつながりが弱くなったと感じられるようになった(その結果、NHKで「無縁社会」が特集されたり、「昭和30年代ブーム」が起きたりする)。

そのような状況のなかで、多くの人々が求めているのは「他者からの承認」であり、「ゆるやかなコミュニティの再構築」である。コミュニタリアニズム共同体主義)と呼ばれるサンデルの思想は、まさにそのような「承認」や「コミュニティ」を重視する哲学であるがゆえに、現代の日本でヒットする要素を兼ね備えていたのではないか、というのが萱野の指摘だ。

これはかなり正確な指摘ではないかと思う。読んでいてなるほど、と思わされた(ちなみに僕はいまだにサンデル本を読んでいない。その代わりにNHKの講義は全部見た)。経済成長が困難な時代において、「正義」と「承認」という二つのキーワードがサンデル本ヒットの要因だった。


それに付け加えていうなら、「古典への回帰」という潮流があったこともヒット要因のひとつだったのではないかと思う。2010年のもう一冊の人文書のメガヒット作は『超訳 ニーチェの言葉』だ(こちらはなんと90万部突破だとか)。あとビジネス本では『もしドラ』が150万部を超えるベストセラー。どちらもニーチェドラッカーという古典を、これ以上ないくらい分かりやすく噛み砕いた書物だ。なぜ2010年にこのような古典が再注目されたのか。


超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉


そこにもやはり、学問がもはやもう大きくは進歩しない、という直感のようなものが働いているのではないかと思う。最新の啓蒙書や学術書を読むよりも、確実な重要性をもつ古典を読みなおすほうが時代に合っているという感覚が醸成されてきたのではないか。これもまた、日本が「成長」社会から「成熟」社会へと移行しつつあることの裏書きであるように思える。

ちなみに「古典への回帰」という潮流は、学術界のなかでは数年前から起こっていて、「中公クラシックス」、「日経BPクラシック」、「光文社古典新訳文庫」などのシリーズから新訳が次々出版されている。どのシリーズもそこそこのヒットを収めているようだ。亀山郁夫新訳の『カラマーゾフの兄弟』は累計80万部を超えるヒットになった。やや強引に結びつければ、村上春樹新訳の『ライ麦畑』『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』なども海外文学にしては異例のヒットを記録している。


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)



このような「古典への回帰」ブームは、「もはや社会/学問は大きく成長/進歩しない。それよりも昔を振り返ろう」というある種の諦念に支えられたものであるようにも見える。しかし、アカデミズムの場に身をおく者にとっては、この状況は必ずしも悪いものではない。むしろ「成熟社会」においてこそ、じっくりと腰を据えて、古典を読み直す価値があるし、その手引きとなるような解釈や、古典を現代社会と結びつけるための視座を提供する役割が学者・研究者には求められているはずだ。

「正義」「承認」「古典」。これらが重要キーワードになる現在は、「競争」「成長」「進歩」が重要キーワードになる時代よりも、アカデミズムにとって望ましい時代であるはずなのだ(残念ながらあまりそうなってはいないが)。「成熟社会」を豊かなものにするためのひとつのファクターとして、「学問」が果たすべき役割を担えるかどうか。すべてはそこにかかっていると思う。