アーレントの帝国主義論から現代日本を見る

 博論執筆のためにハンナ・アーレントの『全体主義の起原』第二部の帝国主義論を読み返しているのだが、アーレント帝国主義論は現在の日本の政治状況を分析するための示唆に満ちていると思う。

 アーレント帝国主義全体主義の前段階と位置づけ、それを「膨張のための膨張運動」「人種思想」「無人支配としての官僚制」などによって特徴づけた。膨張のための膨張運動→新自由主義、人種思想→レイシズム無人支配としての官僚制→「法の支配」を軽視する政治、などの特徴とぴたりと合致する。

 日本の現状を、1930年代のドイツや日本の全体主義との類似で語る言説はよく見かけるようになったが、柄谷行人はむしろ日本の現状を120年前の帝国主義の時代との類似において分析するべきだと提唱している。現在の世界は再び帝国主義期に突入しつつあり、それは全体主義の前段階を意味するのだというのである。

「膨張のための膨張は無限のプロセスであり、その渦中に入った者は自分のままであり続けることは決して許されない。この潮流に一旦身を任せた者は、このプロセスの法則に服従し、その運動を持続させるための名もなき軍勢の一員となり、自分自身を単なる歯車と見なし、その機能に徹することこそダイナミックな流れの方向の体現であり、人間の果たしうる最高の業績であると考えることしかできない。こうなったとき人は自分が『過ちを侵すことはありえず』自分のすることはすべて正しいと実際に妄想するようになる。」(アーレント全体主義の起原』第二部)


 これに加えてアーレントが提唱する「種族的(フェルキッシュ)ナショナリズム」の概念も興味深い。アーレントは「西欧型ナショナリズム」と中東欧の「種族的ナショナリズム」を区別する。西欧型ナショナリズムが特定の土地(領土)に根ざした歴史的・文化的統一に基づく国民的同質性を強調するのに対し、中東欧諸国ではそのような安定的な土地への根づき、歴史的・文化的統一、国民的同質性などの要素を欠いていたために、結果として「種」や「血」や「魂」といった抽象的な観念に依存した種族的ナショナリズムを発展させざるをえなかったというのである。

 このように「種」や「血」や「魂」といった抽象的な観念に依拠し、「人種」によって自民族(自国民)の優秀さを主張する「種族的ナショナリズム」は、近年日本のうちで急速に成長しつつあるレイシズムヘイトスピーチなどの現象と符合するものではないか。同時に安定的に定められた「法の支配」ではなく、その都度ごとに発せられる「政令の支配」にもとづく「無人支配」としての帝国主義的官僚制や、海外に利殖を求める資本家と国家権力が結託して実現される「膨張のための膨張」運動など、ここで指摘される多くの要素が現代日本の状況に当てはまるのだ。

「…ここでは権力はすべての政治的行為の原動力として、自分自身をたえず餌として喰らいながらも決して止むことなく回り続けるモーターとして理解されており、それは、資本の無限の蓄積をもたらすという不可思議なモーターと正確に対応するものだからである」(アーレント全体主義の起原』第二部)

 だとすればわれわれは、現代日本が新たな帝国主義的段階にあり、さらにはそれが全体主義的段階へ向かいつつあるという危機感をもって、われわれの社会を注視しておく必要があるのではないだろうか。過去の歴史を学ぶ意義はおそらくそういうところに存するはずである。


全体主義の起原 2 ――帝国主義

全体主義の起原 2 ――帝国主義