なぜサンデル本はヒットしたのか?

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]


2011年1月号の「BRUTUS」は「本。」特集で非常に面白かった。
なかでも、いとうせいこう×萱野稔人対談(サンデル本をめぐって)と、速水健朗さんの書いた自己啓発本に関する記事が興味深い。

いとうせいこう×萱野稔人対談は、昨年、サンデル本がなぜあれほどウケたのか、という話題から始まっている(マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』は人文書としては異例の50万部を超えるヒット作となった。実際どれだけの人が読んでるのかはかなり怪しいけど)。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


萱野稔人いわく、それは日本がもはやこれ以上(大きくは)経済成長しないことに皆が気付き始めたからではないか。そうすると限られたパイをどのように分配するか、という問題が浮上する(これまではパイを拡大することでその問題を回避できた)。そこにサンデルやロールズの「正義」論がはまったのではないか、ということだ。

さらに社会が経済成長を鈍化させる「成熟社会」の段階にはいると、人々は物質的な豊かさよりも精神的な豊かさや人間関係の豊かさをより重視するようになる。そこで「承認」が重要なキーワードとなる。グローバル資本主義が拡大した結果、家族・地域・会社などの既存のコミュニティが弱体化し、人間関係のつながりが弱くなったと感じられるようになった(その結果、NHKで「無縁社会」が特集されたり、「昭和30年代ブーム」が起きたりする)。

そのような状況のなかで、多くの人々が求めているのは「他者からの承認」であり、「ゆるやかなコミュニティの再構築」である。コミュニタリアニズム共同体主義)と呼ばれるサンデルの思想は、まさにそのような「承認」や「コミュニティ」を重視する哲学であるがゆえに、現代の日本でヒットする要素を兼ね備えていたのではないか、というのが萱野の指摘だ。

これはかなり正確な指摘ではないかと思う。読んでいてなるほど、と思わされた(ちなみに僕はいまだにサンデル本を読んでいない。その代わりにNHKの講義は全部見た)。経済成長が困難な時代において、「正義」と「承認」という二つのキーワードがサンデル本ヒットの要因だった。


それに付け加えていうなら、「古典への回帰」という潮流があったこともヒット要因のひとつだったのではないかと思う。2010年のもう一冊の人文書のメガヒット作は『超訳 ニーチェの言葉』だ(こちらはなんと90万部突破だとか)。あとビジネス本では『もしドラ』が150万部を超えるベストセラー。どちらもニーチェドラッカーという古典を、これ以上ないくらい分かりやすく噛み砕いた書物だ。なぜ2010年にこのような古典が再注目されたのか。


超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉


そこにもやはり、学問がもはやもう大きくは進歩しない、という直感のようなものが働いているのではないかと思う。最新の啓蒙書や学術書を読むよりも、確実な重要性をもつ古典を読みなおすほうが時代に合っているという感覚が醸成されてきたのではないか。これもまた、日本が「成長」社会から「成熟」社会へと移行しつつあることの裏書きであるように思える。

ちなみに「古典への回帰」という潮流は、学術界のなかでは数年前から起こっていて、「中公クラシックス」、「日経BPクラシック」、「光文社古典新訳文庫」などのシリーズから新訳が次々出版されている。どのシリーズもそこそこのヒットを収めているようだ。亀山郁夫新訳の『カラマーゾフの兄弟』は累計80万部を超えるヒットになった。やや強引に結びつければ、村上春樹新訳の『ライ麦畑』『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』なども海外文学にしては異例のヒットを記録している。


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)



このような「古典への回帰」ブームは、「もはや社会/学問は大きく成長/進歩しない。それよりも昔を振り返ろう」というある種の諦念に支えられたものであるようにも見える。しかし、アカデミズムの場に身をおく者にとっては、この状況は必ずしも悪いものではない。むしろ「成熟社会」においてこそ、じっくりと腰を据えて、古典を読み直す価値があるし、その手引きとなるような解釈や、古典を現代社会と結びつけるための視座を提供する役割が学者・研究者には求められているはずだ。

「正義」「承認」「古典」。これらが重要キーワードになる現在は、「競争」「成長」「進歩」が重要キーワードになる時代よりも、アカデミズムにとって望ましい時代であるはずなのだ(残念ながらあまりそうなってはいないが)。「成熟社会」を豊かなものにするためのひとつのファクターとして、「学問」が果たすべき役割を担えるかどうか。すべてはそこにかかっていると思う。

なぜワタナベくんとレイコさんは寝たのか? ー私的『ノルウェイの森』解釈ー

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

前回、映画「ノルウェイの森」の感想で、最後にワタナベくんとレイコさんが寝るシーンの解釈に違和感があった、ということを書きました。そのことについて今日はもう少し詳しく書いてみます。


なぜ違和感があったのか?もともと原作でもあの場面はかなり謎な展開で、「えっ、なぜ?」と思った読者は多かったはず。僕もその一人です。しかし繰り返し『ノルウェイの森』を読むうちに、僕なりにあの場面でなぜワタナベくんとレイコさんが寝なければならなかったのか、なんとなく理解できるようになりました。以下はあくまで僕なりの解釈です。


ノルウェイの森』の小説の前半部に、次のような印象的な一文があります。
「生は死の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している」
この一文は小説のなかで唯一太文字ゴシックで強調された部分であり、これがこの小説の重要なテーマ(のひとつ)であることが伺えます。この一文はキズキが自殺した場面の直後に書かれています。さてこの一文が意味しているのはどういうことか。
身近な人を亡くした経験のある人には理解してもらえると思うのですが、誰かが突然に亡くなったとき、その人が死んでいなくなったという事実をうまく受け入れられず、その人がまだ生きているような感覚にとらわれることがあります。その人はもうこの世にはいないのだけれど、自分の心の中では生きている。心の中でその人と会話したり、その人のことを思い出したり、その人が今一緒にいたら…と想像したりする。そんなとき確かにその人は僕たちにとって「生きて」いるのであり、決してこの世から完全に消滅してしまったわけではありません。つまり、そのとき「死は生の一部に含まれている」
それならば逆も然り。ときには「生が死の一部に含まれている」ことも起こりうる。生の世界にいるはずの我々がなんらかのきっかけで死の世界に足を踏み入れているということもありうるはず。生と死の世界の間にくっきりと境界線が引かれているわけではなく、その境界は常に曖昧である。ときにその境界は歪み、伸び縮みする。ときには生の世界が死の世界と入り混じり、一方が他方を呑み込むことがありうる。


村上春樹の小説の重要なモチーフのひとつに、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界、というものがあります。我々は普段「こちら側」で生きている。しかしふとしたはずみで我々が「あちら側」の世界に行ってしまうということがありうる。このことは例えば『ねじまき鳥クロニクル』では「壁抜け」と呼ばれていました(村上春樹はこの「壁抜け」というキーワードをその後のエッセイやインタビューでもしばしば使っています)。またその「壁抜け」の入り口の象徴として「井戸」がモチーフとして使われていました。また『スプートニクの恋人』では、ミュウやすみれがそれぞれの出来事を通じて「あちら側」の世界に移動してしまう、という印象的な場面が描かれていました。『海辺のカフカ』ではその構図はさらに複雑化し、登場人物たちは様々な意味(例えば時空間を超えて)で「こちら側」の世界と「あちら側」の世界を行ったり来たりします。*1同じく『1Q84』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など、並行世界が交互に語られるという村上春樹得意の物語においても、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界の並行関係(対立関係ではない)が物語の重要な構造となっています。


前置きが長くなりましたが、このような「こちら側」と「あちら側」の世界という構図が『ノルウェイの森』にも明確に見られます。ただし『ノルウェイの森』ではその構図が「生の世界」と「死の世界」という一点に絞られて物語られている点が他の村上春樹小説とは異なるところです。この小説の帯に「これは100%の恋愛小説です」というキャッチコピーが書かれていたことは有名ですが(村上春樹本人によるもの)、そのキャッチコピーがこの小説の表のテーマを成すとすれば、この小説の裏のテーマは明らかに「生と死の対比」です。この小説の中ではどんどん登場人物が死んでいく。まずキズキが死に、緑の父親が死に、ハツミさんが死に、最後に直子が死ぬ(ハツミさんは死ぬことが予告されるだけですが)。この小説を読んでいて死にたくなった、という感想を抱いた人は少なくなかったはず。物語の最初から最後まで、この小説にはずっと「死の匂い」が立ちこめています。それゆえ、表面的には「恋愛小説」でありながら、一文一文に不吉な予感に満ちており、読む者の心を暗く沈ませます(もちろん明るく幸福な場面もいくつもあるのですが、それでも)。


この物語のなかで特に「死」を象徴する存在であるのは直子です。直子はもちろん物語のかなり後半まで「生きて」いるのですが、その存在は小説の冒頭から既に「死」を色濃く予感させる存在です。物語の冒頭で、主人公が直子と草原を歩きながら会話していたことを回想する場面で、「もし私が深い穴に落ちて、それに誰も気付かなかったら…」という不安に駆られることがある、と直子が主人公に告白する。主人公は直子の不安を笑い飛ばそうとするけれども、直子は取り合わない。このやりとりからしてまず、直子が「死」に深くとらわれ、遠からず「死」に向かっていく存在であることが予告されています。直子は、ある意味でキズキが死んでしまった時点で、半分はすでに「死んで」しまった存在なのです。それ以降の直子は「こちら側」=「生の世界」でもはやうまく生きていけなくなってしまう。直子は「こちら側」の世界にいながら、半分以上「あちら側」=「死の世界」にいる。そのことが心の病となって表れ、直子は療養のために京都の山奥にある療養施設に入っていくわけですが、ここでその京都の山奥の療養施設は完全に「あちら側」の世界として描かれています。それはもはや「こちら側」の世界ではありません。*2


いっぽうでこの物語の中で「こちら側」=生の世界を象徴する存在は緑です。緑は小説のなかで一貫して、明るい性格の個性的なキャラクターとして描かれます。ただし、緑も楽しいだけの人生を送っているわけではない。むしろその逆で、幼い頃から家庭環境に恵まれず、物語の中で入院していた父親も死んでしまい、その逆境にもめげずに姉と力を合わせながら健気に生きている存在として緑は描かれています。その明るい無邪気な発言の裏には、悲しい辛い背景があるということが読者の心を打たせる要因になっています。*3


さて、「あちら側」=死の世界を象徴する直子と「こちら側」=生の世界を象徴する緑。主人公は、この二人の女性の間を行ったり来たりすることで青春の様々な葛藤を乗り越えていくわけです。そういう意味で、主人公のワタナベくんは「こちら側」と「あちら側」の中間領域にいる存在です。いわば「海辺のカフカ」君と同じ立場です(あるいは『1Q84』の天吾や青豆とも同じ立場です)。普通にこの小説を読んでいると、主人公のワタナベ君は直子だけを愛していると言いながら、緑にも惹かれて手コキをしてもらったり、他にも永沢さんに連れられて見ず知らずの女の子と寝たりして、なんてふらふらした奴だ!(羨ましい奴だ!)と怒り出したくもなってしまう男として描かれています。まぁ実際にその通りなのですが、それも「こちら側」と「あちら側」の間を彷徨う存在として、まだ自己のアイデンティティが定まらず、何者でもない大学生があちらこちらをふらふらと彷徨う存在として、描かれていると捉えれば少しはその立場が理解できるかもしれません(しかしその羨ましすぎる立場はやはり許し難いものですが)。

そして主人公と同じく「こちら側」と「あちら側」の境界領域にいるのがレイコさんです。小説ではレイコさんがなぜあの療養施設に入ることになったのか、その経緯が詳しく描かれていますが(この部分を映画でカットしたのは妥当なところでしょう)、レイコさんもやはり「こちら側」の世界で心に傷を負い、その傷を癒すために「あちら側」の世界にいるのです。しかし直子に比べればレイコさんはずっと「こちら側」の世界に近い場所にいる人で、それゆえにレイコさんは直子さんの面倒見役となり、主人公と直子を繋ぐ役割として存在しているのです。


以上が『ノルウェイの森』の基本的な構図と各登場人物の(こちら側の世界とあちら側の世界における)立ち位置の説明です。ここまででまだ書きたいことの半分くらいなのですが、いったん区切りとして続きはまた後日に書きたいと思います。

*1:河合隼雄が指摘しているように、タイトルにある「海辺」とは海と陸が入り混じる場所、海と陸の中間領域を意味する言葉です。主人公のカフカ君は、いろいろな事件を通して「こちら側」の世界と「あちら側」の世界の境界線上を歩んでゆき、最終的に「この世界の一部となる」ことによって成長を遂げていくのです。

*2:映画では主人公と直子とレイコさんしか描かれていませんでしたが、原作ではその他にも様々な「患者」が同じ施設の中で生活していることが描かれています。彼らは「こちら側」の世界からすれば「おかしな人たち」だけれども、「あちら側」の世界では必ずしもそうではない。「こちら側」の常識が通用しないけれども、どこか暖かみのある異次元の世界として、「こちら側」の世界に属しつつ、すでに「あちら側」の世界である領域として、その療養施設と京都の山奥は描かれているのです。直子は、この「こちら側」と「あちら側」の中間領域において、なんとか「こちら側」=生の世界に戻ってこようと努力する。しかしなかなかうまくいかない。主人公も直子を訪ねてその療養施設にお見舞いに行く。このとき主人公は「あちら側」の世界に一歩足を踏み入れている。その非現実的な感覚は、映画の中では非現実的に美しい草原や雪景色となって描かれていて、これらの場面は映像的にも美しく非常に良かったと思います。しかし、結果的にやはり直子は自殺してしまう。この場面以降の「死の悲しみ」の描き方も映画版は非常に良かったですね。ジョニー・グリーンウィッドの不吉な音楽と相俟って素晴らしい映像表現になっていたと思います。

*3:ちなみに映画では、緑を演じた水原希子は非常にキュートで好感をもちましたが、トラン・ファン・ユン監督の演出には疑問を感じました。水原希子が演技経験がほとんどない新人であるので仕方のないところでもあるんですけど、ほとんどの台詞が棒読みで感情がこもっていない。ただしそれは水原希子の演技が下手というのもあるけれど、トラン・ファン・ユン監督の意図として、緑を謎めいたクールな女の子として演出しようとしていたのではないかと感じました。しかしそれは原作における緑の印象とはだいぶ違う。原作の緑はもっと生命力に溢れていて、気取った感情を表に出さない喋り方なんて全然していません。常に奇抜でユーモアな発言(だけれども鋭く真実の一面を突く)で主人公を困らせ、戸惑わせ、生きていることを実感させてくれる存在として、緑は描かれています。そのような生の象徴である緑の姿が映画では十分に描かれていなかったのではないか。水原希子のルックスがとても可愛いだけに演技・演出が残念、というのが僕の印象です。

書評:山田昌弘『ワーキングプア時代』

ワーキングプア時代

ワーキングプア時代


 日本で「ワーキングプア」という言葉が有名になったのは、2006年7月にNHKワーキングプアに関する特集が放送されたことをきっかけとしてであった。そこでは、真面目に働いているにもかかわらずぎりぎりの生活を強いられる人々の姿が紹介され、大きな反響を呼び、続編も作られた。

 近代資本主義社会は、職に就いて真面目に働きさえすれば人並みの生活が送れることを保証することによって成り立ってきた。つまり、「働けないがゆえの貧困」は存在しても、「働きながらも貧しい」ワーキングプアは存在しないことを前提に社会が設計され、社会保障をはじめとした諸制度が運営されてきた。しかし、近年、先進国で広まってきているのは、「職に就いて真面目に働いていても人並みの生活ができる収入が得られない」人々が増大しているという事実である。これを社会学者のジグムント・バウマンニュープアと呼んでいる(『新しい貧困』)。


 NHKの特集で紹介された人々も、働くことができなくて生活が苦しいのではない。ましてや、努力せずさぼっているから収入が低いのではない。仕事が減り続ける仕立て屋さん、過当競争で収入が激減したタクシー運転手、ネットカフェで寝泊まりする日雇い派遣の若者。彼らは、一生懸命その人なりに働いているにもかかかわらず、人並みの生活ができない状態に置かれた人々なのである。

 バウマンが述べるように、ワーキングプアに代表される「新しい貧困」は、従来理解されてきた貧困(オールドプア)とはいくつかの点で質的に異なっている。従来型の貧困では、様々な理由で働けない人々がその中心にいた。例えば、失業などで職を失った人、病気などで働けない人、幼い子供を抱えるためにフルタイムの就労が難しい母子家庭、無年金の高齢者世帯などである。そこで従来の貧困対策は、生活保護などで働けない人々に対する福祉、および失業対策など就労支援の問題に還元することができた(このことは、もちろん従来型の貧困対策が十分になされてきたということではなく、また従来型の貧困がもはやなくなったということでもない。ただニュープアの出現によってオールドプアの意味も変容してきているとはいえる)


 いま、起こっているのは、フルタイムで働いていたり、その機会や能力がある人、および、彼らの扶養家族であっても、生活苦に陥る人々が出てきたという事態である。それゆえ、新しい貧困は「職に就けばなんとかなる」という就労支援に還元することができないし、将来働くことさえできれば貧困から脱出できるという「希望」を貧困状態に陥っている人々から奪う。このことが筆者のいう希望格差社会へとつながるのである。

 またこの状況は国の社会保障・福祉システムにも影響を及ぼさざるをえない。先にも述べたように、従来の社会保障・福祉制度は、職に就いて真面目に働きさえすれば人並みの生活が送れることを前提として設計・運営されてきた。しかし、フルタイムで働いても貧困状態から抜け出せないというワーキングプアが出現した現在では、従来型の社会保障・福祉制度では、それに対応できないことは明白である。
 例えば、生活保護では、フルタイム就労すれば保護費の支給は原則打ち切りとなる。ときには、就労の意志があるだけで受給辞退を迫られることもある。その対応は、労働需要が旺盛で、仕事を選り好みしなければ人並みの生活ができるだけの収入が得らえれた時代の名残なのである。フルタイムで働いても生活保護支給額と金額が大差ない仕事にしか就けなければ就労意欲は低下するだろう。


 伝統的な社会保障・福祉制度は、学校を卒業したら全員が安定した職に就くことができ、結婚し、子どもを持つことを前提としてきた。つまり、全員がサラリーマン主婦型家族か自営業家族というモデル家族を形成できることを前提にしてきた。これらのモデルを標準として、生涯にわたって「人並みの生活」を送れるようにする社会保障制度を作り、不幸にも、そのモデルから外れた人に対しては、社会福祉で最低限の生活を扶助することを原則としてきた。

 しかし、いま起きているのは、モデル家族を外れる人がどんどん増えているにもかかわらず、そのような人が生涯にわたって「人並みの生活」を送れるような社会保障制度が整っていないという事態である。つまり、モデル家族を離れた人は、自助努力で人並みの生活を作らざるをえず、最低限の生活に落ちるまでは行政の支援は受けられない仕組みになっている。


 このように現行の社会制度・福祉制度は、現在起きている「ワーキングプア」の出現と増大、およびライフコースの多様化と不確実化に対応できていない、まさに穴だらけの制度なのである。社会保障・福祉制度が穴だらけであることが、社会保障・福祉制度への信頼性を失わせ、人々の生活不安を増大させているのだ。筆者は、上記のようなニュープアの実態とそれをカバーできない社会保障制度の穴の実例を多く紹介している。フリーター、パラサイト・シングル(筆者の造語)、専業主婦、高齢者、高学歴ワーキングプア、母子家庭などなどである。
 
 そのうえで筆者は、(1)ワーキングプアの出現と(2)ライフコースの不確実化という二つの事態に対応する新たな社会保障制度のあり方を提案する。一言でいえば、筆者が提案する新たな社会保障とは、ベーシック・インカム(資力調査なしの現金給付システム)である。貯金があっても、援助してくれる人がいても、生活保護基準を多少超えるレベルで働いている人でも、最低限の生活が可能で、また努力すれば最低基準以上の生活ができるような現金給付システムを構築すべきである、と筆者はいう。これをセーフティーネットとしてうまく構築すれば、従来、生活保護雇用保険最低賃金などに分立していたセーフティーネットが不要になるのである。


 さらに筆者は、年金マイレージ制度、親保険、一人暮らし若者給付など独自の社会保障制度を多く提案している。個人的にそのすべてのアイデアに賛成というわけではないが、現行の社会保障制度が(1)ワーキングプアの出現と(2)ライフコースの不確実化という現実に対応できておらず、新しい社会保障制度の構築が必要だという筆者の主張には強く共感する。
 
 ここでも問題になるのは、「何が正しい答えかは既に分かっている。問題はそれをどうやって実現するのか」ということであろう。筆者のような社会学者の方に多く政府の委員会に入ってもらい、適切な処方箋を提唱してもらうことがそのひとつの方途だ。もうひとつは、一般の人々への啓蒙活動だろう。ニュープアワーキングプア)出現の実態と構造、そしてそれに対応した新しい社会保障制度・福祉制度を構築することの必要性を広く訴えていくしかない。まずは問題の所在とその本質的な意味を分かりやすく解説し、認識を広めていくこと。そこからしか始まらないのだろうと「希望」を込めて思う。



「希望格差」を超えて 新平等社会 (文春文庫)

「希望格差」を超えて 新平等社会 (文春文庫)

映画感想「ノルウェイの森」


もともと原作ファン、というか村上春樹ファンなので観に行くつもりなかったのですが、周囲で聞く評判が意外に良いものばかりなので、気になって観に行ってきました。結論としては、「悪くなかった」です。点数つけるなら65〜70点くらい?


<良かった点>
・映像の美しさ
・60年代当時の服装・髪型・大学・寮などの再現力
・全体的に小説の雰囲気をうまく再現できている
・ワタナベ役の松山ケンイチ
・永沢さん役の玉山鉄二
ジョニー・グリーンウッドRadioheadのギター)の無気味な音楽


<イマイチだった点>
・直子役の菊地凛子が個性強すぎる。直子はもっと透明感のある役柄であって欲しかった。あと最初から最後までメンヘル系女子として描かれているところに違和感があった。前半では美しい&可愛らしい直子の姿も描かないと、なぜワタナベが直子に惹かれるのかが分からなくなる(もともと原作でもよく分からないんだけど)。

・緑役の水原希子の演技。水原希子は可愛いんだけど、セリフがすべて棒読み&無感情なのは頂けない。この物語のなかで緑は「生」の象徴なので、もっと明るく個性的でワタナベをかき回すキャラクターでないとダメだと思う。この映画では登場人物がみんなクールで感情を露にしないキャラクターとして描かれているが、それは失敗なのではないか。

・レイコさん役がキレイすぎる。レイコさんはもう少し歳をとって(白髪混じり)ブサイクな人がよかったと思う。最後にワタナベがレイコさんと寝る場面の解釈にも違和感があった。映画だと完全にレイコさん自身の傷を癒すために二人が寝たということになっているが、それは解釈が違うと思う。あのシーンは、お互いが直子が死んだ傷を癒し、これからもこの世界で「生きていく」ための儀式として描かないとダメなんじゃないか。



というわけで、全体的な雰囲気の描き方と主人公役の松山ケンイチの演技が良いので、その時点で僕のなかでは合格点に達しています。その二つが映画化にあたって一番難しいと思われていたポイントなので、そこをクリアしてきたのは素晴らしい。これだけで映画化に挑戦した価値はあったと言っていいと思います。

いっぽうでイマイチだと感じたのは、直子・緑・レイコさんという主人公を取り巻く三人の女性の描き方。配役・演出・演技、それぞれに違和感がありました。しかしこれはあくまで僕のノルウェイの森解釈と異なるというだけで、他の人から見れば「配役も演出もぴったり」ということはあるかもしれません。個人的には、直子役を水原希子がやって、緑役を菊地凛子がやったら良かったと思うんだけど、どうでしょう。菊地凛子のあの個性的な顔と演技は、直子よりも緑のほうが合ってるんじゃないかな。

予想されたことではありますが、映画観終わったあとから「ノルウェイの森」が頭の中で鳴り止まず、家に帰って久しぶりにビートルズの「赤盤」を引っぱり出しました。


The Beatles 1962-1966

The Beatles 1962-1966

映画感想:「ソーシャルネットワーク」


とりあえずの感想は「こんなに早口な映画は見たことない」ということ。主人公のザッカーバーグも、ナップスター創設者のショーンも超早口でよく喋る。その他の登場人物に関してもとにかくこの映画はセリフが多い。だいたい映画の8割くらいは誰かが喋っている。それゆえ情報量は膨大。物語の途中からは二つの示談交渉が挟まって時間軸も行ったり来たりする。

普通そういう会話と情報量が多い映画は、観ている側が途中で話の筋についていけなくなったり、飽きてきたりすることが多いのだけれど、この映画はそうさせない所がすごい。テンポのよいストーリー展開と心地よい映像と音楽でどんどん観客を惹きつける。おそらく脚本と演出が素晴らしいのだろう。ディビッド・フィンチャーの本領発揮というところ。


例えば、映画冒頭のザッカーバーグとエリカのシーン。のっけから説明なしでザッカーバーグと恋人の早口な会話で始まり、それが延々5分くらい続く。しかもふたりの会話は全然かみ合ってない。にもかかわらずそのかみ合わなさが面白いし(途中から「一体何の話?」ってエリカが怒り出すのがおかしかった)、その後のストーリー設定がきちんとなされている。こんな映画の冒頭見たことない。この冒頭シーンを書いた脚本家とそれにOKを出した監督がすごい。ナイス・コンビネーション。

全体のストーリーは、アメリカ学園ものによくある「ナードの逆襲」というやつで、結構ありきたりな展開だと思うんだけど、なぜこんなに見る者を飽きさせないどころか、ぐっと集中力を惹きつけるんだろうか。いろいろ理由はあるけど、とにかく映画の「作り」が上手いということに尽きるのだろう。テンポの良さ、セリフの言い回し、配役、映像、音楽など(個人的にサウンドトラックの使い方がすごく好きだった)。

ラストも冒頭との円環構造になっていて、そしてザッカーバーグの成功後の複雑な心境を絶妙に表していて、美しい終わり方。結局、ザッカーバーグは人生に勝ったのか負けたのか。そして最終的にエリカはザッカーバーグのリクエストを受け入れたのだろうか?自身が創設したFacebookに登録した元恋人の写真をPC越しに眺めながら、更新キーをたたき続けるザッカーバーグ、という画は観る者に様々な余韻を語りかけてくる。



と、ここまではこの映画を絶賛してきたけれど、映画全体としては、「そこまで絶賛されるほど素晴らしい映画かなぁ? 」という気もしました。確かに多くの面で映画の作りは上手いのでしょう。しかし個人的には胸を揺さぶられるほどの感動や興奮はなかった、というのが正直なところ。いや、本当に最後まで面白く見たんですけども。しかし、この物足りなさは何なんだろう?

おそらくそれは、ザッカーバーグやショーンのような生き方に対する僕なりの不信感というか、ピンとこなさみたいなものがあるんだと思う。ああいういかにもITベンチャー的な「俺がインターネットを通じて世界を変えてやる」的な野心と熱狂みたいなものがあまり好きになれないんですよね。それよりも先々週に見た「アンストッパブル」のブルワーカー的職人気質みたいなものの方が好き。あるいは先週に見た「ノルウェイの森」のワタナベ君のように、そのような熱狂や華やかさに背をそむけて孤独に小説の世界に入り込んで生きている方が好き。


とはいえ、この映画はハッカー文化万歳、インターネット万歳みたいな軽薄はノリではなく、熱狂の後に来る空しさや孤独をきちんと描いているので、そこは好感をもちました。ザッカーバーグの生き方や哲学にどれくらい共感できるか、という点でこの映画の評価度合いは分かれるのではないかという気がします。野心ある若者や、IT系の仕事に就いている人などは、この映画を通じて希望と興奮を貰うのかもしれません。

というわけで、映画の作りの上手さは誰もが認める映画だと思うんですが、物語としてザッカーバーグの生き方に共感・感動できるのかどうか、見終わった人の感想を聞いてみたくなる映画でした。この映画も「アンストッパブル」とはまた別の意味で、リーマンショック以後のアメリカを映し出す映画のひとつではないかとも感じました。その流れでいくと「ウォール・ストリート」の続編も気になりますね。

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オフィシャルサイトの作りがなかなか凝っています。

twitterの感想が面白い。ある人のつぶやきで、「ナップスター創業者のショーン・パーカー役にジャスティン・ティンバーレイクを起用したのが面白い。音楽を無料でダウンロードできるようにしてしまったショーンを被害者の一人であるミュージシャンが演じる。これは痛烈なブラックジョークだ。」というのがあって、なるほどと思った。


主演ジェシー・アイゼンバーグ インタビュー

→「時には100回以上のテイクを撮るときもあったけど…」とのこと。100回!さすが。


脚本家 アーロン・ソーキン インタビュー

→脚本が通常の1.5倍だったとか。どうりで早口になるわけだ(笑)
>「1ページ1分が目安なのに162ページもある。こんなに多いのは私が言葉を重ねてストーリーを語るタイプだから。普通に撮れば162分のところを120分に凝縮するわけだから、俳優たちはすごく早くしゃべらなければならなかった」

子ども手当は「バラマキ」か?

最近は「バラマキだ!」と言われて、すこぶる評判の悪い子ども手当ですが、1年4ヶ月前の選挙では結構多くの人が子ども手当に賛成していたはずで、あのときに子ども手当を支持していた多くの人たちは一体どこへ行ってしまったんでしょう?僕は今でも子ども手当、賛成の側なんですが。ただしお金の給付じゃなくてバウチャー制とか現物給付の方がなお良いのではと思います(後述)。


子ども手当に関する民主党の一番の問題は、その理念をきちんと説明していないことだと思います。子ども手当の理念は「子どもは各家庭の責任で育てるのではなくて、社会全体で育てる」ということです。つまり、子どもが産まれてから成人するまでは、どのような家庭環境に生まれた人でも最低限度の生存権と教育を受ける権利を保障されているべきだ、という理念です。このような理念は主にヨーロッパで共有され、フランス・ドイツ・イギリス・北欧諸国などでは、日本とは比べものにならない割合で、子育てに公的給付がなされています。*1



子育てに対する公的給付のGDPに占める割合は、日本が0.8%であるのに対し、スゥエーデンでは3.21%、イギリスでは3.19%、フランスでは3.00%であり、日本は(アメリカを除いた)先進諸国に大きく劣っている。その結果が出生率の低下に大きくつながっていると言われています。2009年時点の日本の出生率が1.37であるのに対し、フランスの出生率は1.99、イギリスは1.90、スゥエーデンは1.88です(アメリカの出生率が高いのは移民が多いから)。*2



いっぽうで日本は高齢者向けの公的給付は非常に手厚い。日本の高齢者向け公的支出の対GDP比は8.0%で、家族・子どもむけ公的支出の約10倍です。これは他の先進諸国にも引けを取らない数字。最近よく言われるけど、これは高齢層と若年層の投票率の差に起因する問題です。政治家は、あまり選挙に行かない若年層よりも、投票率の高い高齢層に向いた政策を行いやすい。その結果が、家族・子どもむけと高齢層向けの公的支出割合の大きなギャップを呼んでいるのです。*3



民主党子ども手当は、このような現状を受けて、出生率を上げ、子どもを育てやすい環境にするために、もう少し家族・子どもむけの公的支出を増やそう、という意図のもとに構想されたものです。さらにその背景には、各家庭に任せておけば子どもがちゃんと育つ、という期待を持ちにくくなるケースが増えてきた、ということがあります。最近では育児放棄や虐待、また家計の困窮などの理由から、子育ては各家庭に任せておけばよい、という合意形成が困難になってきた。そこで、せめて子どもが生まれてから成人するまでは社会全体で責任を持とう、成人までの生存権と教育を受ける権利は、基本的人権として誰もが享受すべきものだから、という方向への転換が起こったのです。


このような転換じたいはまったく正当なものだと僕は思います。「成熟社会」日本が進むべき正しい方向(波頭亮『成熟社会日本の進路』)です。問題はそのような理念を民主党がまったく説明できていないこと。以上のような説明がほとんどなしで、ただ子どものいる家庭にはお金をあげますよ、という話になっているので、それはバラマキじゃないのか?という疑問の声があがるのも当然です。民主党には国家戦略のビジョンがない、とよく言われますが、本当はそうではない、と僕は考えています。少なくとも元々はビジョンがあったはず、ただそのビジョンや理念を国民に伝える努力をしていない、ということが問題です。ビジョンや理念抜きの給付に反対が起こるのは当然で、今こそ民主党がきちんとそれを説明すべきときです。財源を確保するために、所得制限をかけるか、給付額を変更するか、増税するか、という二次的な議論ばかりをしていてもいっこうに国民の支持は得られないでしょう。


成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ (ちくま新書)

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もし本当に国家を良くするためのビジョンや理念があって、そのためにはこういう政策が必要で、それを実施するためにこれだけの財源が必要なんだ、ということを熱く語れるリーダーがいたら、一定の国民は必ずその支出に合意するでしょう。問題はそのような情熱を持ったリーダーもビジョンや理念を国民に分かりやすく伝えようとする政治家も、今の民主党にはいないということです。大変残念なことですが。政策の方向性とその背後にある(はずの)ビジョンや理念は間違っていない、というのが僕の考えです。菅総理は最近では国民への説明力を高めていく、と言っていますが、残念ながらまだ今のところその試みがうまくいっているとは思えません(先日のビデオニュース・ドットコムへの出演を見ても)。これからその方針がうまく機能すると良いのですが。


また最初に述べたように、子ども手当は現金給付ではなく教育バウチャーまたは現物給付のほうが良いと思います。藤沢数希さんはブログの中で、期限付きの教育バウチャーを給付することを提案しておられます。公教育を大幅に自由化、民営化するという方針には個人的に反対ですが、現金給付ではなくバウチャー制にして子ども手当を支給する、という点には大賛成です。むしろ、これだけ教育バウチャー制のほうが良いのではないか、という提言が出ているにも関わらず、民主党がいっこうにバウチャー制を検討しようとしない背後には、何か教育関係者や財界からの圧力があるのか?と疑いたくもなってしまいます。


また、子ども手当反対の意見としてよく聞かれるのが、子ども手当はほとんど貯金に回っているので効果がない、というものですが(藤沢さんもそのように述べられていますが)、その反論は実はあまり意味がないように思います。子ども手当の目的は子育ての補助・出生率の向上であって、景気対策ではありません。子育てや出産は長期的なスパンの中で行われるものです。子ども手当として給付されたお金がすぐに消費されなければならないという法はありません。たとえ貯金に回っていても、それが長期的な家計の備えになっているのであれば全く問題ありません。


「そんなお金は親のパチンコ代に回されるだけだ」という批判もよく聞かれますが(これも藤沢さんが述べられていることですが)、これもナンセンスです。一体どれだけの家庭がそのような使い方をしていると本気で考えているのか。子どもを育てる親を完全に馬鹿にした下品な批判だと思います。内閣府の調査によれば*4、「希望する子ども手当の使い道」(複数回答)は「子どもの将来のための貯蓄」が一位で(62.4%)、「子どもの習い事などの費用」が二位(33.0%)、「日常の生活費に補てん」が三位(26.5%)です。「子どもの将来のための貯蓄」であれば、子育て給付金の理念にかなっています。一体何が問題なのでしょうか?ちなみに「子どものためとは限定しない貯蓄」は11.9%で七位、「家族の遊興費」は11.1%で八位です。



ですから実際にパチンコなどの娯楽に子ども手当を使っている親はおそらく数パーセント程度です。圧倒的多数はあくまで「子育て・教育」のために(長期的に見れば)子ども手当を使うと回答しています。また、仮に子ども手当の一部を親が趣味のパチンコに使ったとしてもそれがそんなに非難されるようなことでしょうか?趣味・娯楽・気晴らしは人それぞれです。もし子ども手当の一部でパチンコをしたり、友人とご飯を食べに出かけたりすることで、毎日子育てで疲れている親御さんたちの気分転換に少しでも役立つなら、そういう使い道もアリではないでしょうか?人のお金の使い道にあれこれと文句をつけるのは、個人の自由を軽視するもので下賎な詮索です。


子ども手当政策に必要とされているのは「理念の語り直し」です。子育てを個々の家庭に任せるのではなく、社会全体で責任をもつということ。生まれてから成人するまでの生存権と教育を受ける権利は、誰にも等しく保障されるべきであるということ。これらの理念の語り直しと説得なくしては、子ども手当が単なるバラマキだと批判される状況はけっして変わらないでしょう。確かに、理念なき子ども手当給付は単なるバラマキです。そこにしっかりとした理念とビジョンを埋め込むことこそがいまの民主党に求められていることです。民主党に関して批判すべきは、その政策内容ではなく、政策のビジョンを国民に熱く語りかけることのできる政治家がいないことです。

新入社員は何を欲望するのか?

公益財団法人 日本生産性本部「2010年度 新入社員 秋の意識調査」より。
http://activity.jpc-net.jp/detail/mdd/activity001012/attached.pdf

同調査によれば、「入社前に描いていたイメージと現在(配属後)の状況を比較し、「期待以下」、「期待通り」、「期待以上」の三者択一の質問をしたところ、「職場の人間関係の良さ」を「期待以上」とする回答が、4年間で過去最高(46.0%)となった」そうだ。これだけ就職難の時代で、多少自分の意志に反してでも会社を選んだ人が多かったであろう2010年度の新入社員たちの間では、期待と現状のミスマッチを感じている人が多いであろうと予想されていたのだが、あにはからんや、実際の意識調査では、入社半年後での満足度が過去最高でミスマッチが最も少なかったという結果が出たのだという。この結果をどう解釈すれば良いのだろうか?

最も考えやすいのは、就職難の時代であるからこそ、現在の雇用を守り抜きたいと彼らが考えており、職場環境に多少の不満があってもそれを抑えつけてしまっているのではないか、というストーリーである。若者が「保守化」「内向き化」しており、転職や起業に対して臆病になった結果、会社への不満を我慢してでも、現在の会社にしがみつこうとしているのではないか、ということだ。最近、年長者から若者への批判としてよく聞かれる意見である。そのことを裏付けるように、同調査の「自分のキャリアプランに反する仕事を、がまんして続けるのは無意味だと思うか」という問いに対し、「そう思わない」とする回答の割合は、06年の設問開始以来、過去最高(74.4%)となっている。

しかし、同じ調査のなかでは、若者の「保守化」「内向き化」という視点だけでは説明しきれない結果も出ている。給料の決め方に関して、「各人の業績や能力が大きく影響する給与システム」を希望する回答が05年からの減少傾向から一転、6年ぶりに増加に転じている(58.3%)。また、昇格に関して、「仕事を通して発揮した能力をもとにして評価が決まり、同期入社でも昇格に差が付くような職場」を希望する回答も、4年ぶりに増加した(65.8%)。これらの変化は、必ずしも若者が年功序列・終身雇用の復活を望むような守旧的「安定化志向」をもっているわけではないことを示している。

また「会社の運動会などの親睦行事は、参加したくない」に対して「そう思わない」とする回答が設問開始以来5年連続増加し、過去最高(83.7%)を更新したほか、担当したい仕事に関して「職場の先輩や他の部門とチームを組んで、成果を分かち合える仕事」を求める回答が過去最高(78.6%)となるなど、社内の人間関係を重視する傾向が強まっているとされる。これらの傾向は「若者が会社への不満を我慢してでも現状の職場に留まろうとしている」という解釈に問題があることを意味している。もし実際には若者が会社に不満を感じているのだとすれば、社内の人間関係に対する満足度が高まるとは考えにくいからだ。つまり、今年の新入社員の会社への満足度は「無理矢理に高められたもの」と捉えるよりも、「実際に純粋に高まっているもの」と捉えるほうが自然なのである。

以上の調査結果が意味しているのは「2010年度の新入社員は、自分が選んだ会社に高い確率で満足しており、職場の人間関係や社内行事に対しても好意的であるが、人事評価としては能力主義を望んでいる」という、一見矛盾するような現象である。この現象は、若者が保守化しているのかいないのか、という二項対立で捉えようとすると整合的に解釈することができないものである。確かに「今の会社に一生勤めようと思っている」という新入社員の割合が増えていることは、彼らのあいだで「安定性」を重視する傾向が強まっていることを示している。

ただし、それは単純に若者が「保守化」、つまり旧来的な価値観に回帰しているということではない。ここでいう旧来的な価値観とは、安定した収入と地位を得ることを第一義的な目的として働く・会社を選ぶ価値観のことである。現在の若者がもっているのは、おそらくそのような価値観ではない。もちろん「失われた20年」と呼ばれる長期不況と先行き不透明な社会状況の中で、彼らが安定した収入や雇用の地位をある程度重視していることは間違いないであろう。ただし、それだけでは「各人の業績や能力が大きく影響する給与システム」を希望する者の割合や「会社の運動会などの親睦行事に参加したい」とする者の割合が増えていることをうまく説明できない。

むしろこの調査結果が示しているのは、現在の若者が「安定した収入や雇用」を求めると同時に、「職場での有効な人間関係」や「会社というコミュニティへの所属」を強く求めているということである。このことがいわゆる旧来の価値観とは異なる点である。すなわち、現代の若者を理解するために重要な要素は、「保守化傾向」よりも「人間関係やコミュニティの重視」であると捉えることができる。さらにこれを「所属と承認への欲求」と言い換えてもよいだろう。

他方で彼らのなかで低下しているのは「会社から起業して独立したい」あるいは「フリーのアルバイトで自由に生きていきたい」と思う者の割合である。つまり、彼らのなかで強まっているのは「多少は不自由でも会社というコミュニティに所属したい」「個人的自由を追求するよりも仲間と成果を分かち合いたい」という欲求であると考えられる。このことは、若者が現在の職にしがみつきたがいがために意志を曲げてでも職場の人間関係や行事に付き合っているということ――かつての「社畜」的あり方――ではない。むしろ、純粋に彼らのなかで「コミュニティや人間関係への欲求」、あるいは「所属や承認への欲求」が高まっていると捉えるべきなのである。



このことを有名な「マズローの五段階欲求説」を用いて説明するならば、現在の日本は(5)自己実現の欲求の段階よりも(3)社会的欲求や(4)自我の欲求の段階にあると捉えるのが適当だということである。(3)社会的欲求とは「帰属と愛情に対する欲求」であり、(4)自我の欲求とは「自尊心に対する欲求および社会的地位や評判に対する欲求」のことであるから、この二つの欲求は「所属と承認に対する欲求」であるとまとめることができる。



1990年代の日本では「フリーター」や「起業」が会社に縛られない自由な働き方であるとして持て囃されていた。しかし、2000年前後の「就職氷河期」以降、格差社会ワーキングプア・ロストジェネレーションなどの用語とともに、かつて「会社に縛られない自由な働き方」を選択した元若者たちが、現在では経済的に困難な状況に陥り、人間関係やコミュニティ所属においても孤立した状況に置かれていることがメディアを通じて繰り返し報道された。2010年には「無縁社会」をテーマとしたドキュメンタリーがNHKで放送され、大きな話題を呼んだ。


このような状況を受けて、現在の若者たちが選んだ価値観が「安定した収入と雇用」に加えて「所属と承認」であったことは自然な流れであるといえる。このような若者の価値観は、若者が「保守化」「内向き化」している、という年長者による説教的視点からでも、「自由な生き方を恐れている・臆病になっている」といった個人主義的価値観からの断罪でも解釈できないものである。現在の若者のあいだで生まれているのは、個人的自由よりも「所属と承認」を求める新しい価値観だと解釈すべきなのである。