twitter=マルチチュード?
ネグリの名前を出すと大抵の人に「マルチチュードなんてどこにいるの?」と聞かれるのだが、例えばtwitterのTLはマルチチュードそのものではないかと思う。twitterを通じて行われた反原発デモなどはまさにマルチチュードの典型だろう。<共>な問題関心をキーとして集まった有象無象。
そのような社会運動のあり方をどう評価するかはともかく、「マルチチュードなんていない」という理屈でネグリを一蹴するのはもはや不可能ではないか。もちろんtwitter通じてデモに参加した人がみなネグリ主義者ということではない。しかしむしろそのような多様性こそがネグリの意図したものだったはずだ。
…というような理屈でネグリ主義とインターネット民主主義をもっと積極的に結びつけようとする論者はいないのだろうか。twitterとマルチチュードは非常に相性が良さそうだけども。あえて言えば濱野智史さんが触れているか。アクチュアルな論点なのでぜひ自分がこの領域を開拓したい。
twitterとマルチチュードを結びつけて語ると、「twitterをマルクス主義的に解釈するな!」と言われてしまいそうだが、むしろマルチチュードをマルクス主義的イデオロギーから解放して解釈したい。ネグリのマルチチュード論はもっと柔軟にインターネットと関連して論じられるべきと思う。
もちろんインターネットと民主主義を関連づけて論じる文脈はこれまでにもたくさんあったわけだが、twitterがこれまでのインターネットツールと異なるのは「島宇宙化された集団を共通のネタを媒介してつなぐ機能」(東浩紀)をもつことだ。この「つながり」機能こそがマルチチュードを生成する。
つまり、特異性をもった人びとを<共>の関心のもとに結びつけ、<帝国>に対抗する有象無象の集団=マルチチュードとして顕在化させるのではないか。このとき群衆はひとつの大きなうねりとなるが、その中で個々人の特異性は失われていない。ただその特異な人びとを媒介する<共>がある。その<共>のインフラとなるのが、例えばtwitterのようなインターネット・アプリなのではないか。
もちろん僕はtwitter至上主義者でもインターネット至上主義者でもない。数年後にはtwitterに代わる新しいインターネットサービスがまた出てくるんだろう。しかし現在twitterがこれだけ盛り上がっている背景にある欲望は、つまりネグリがマルチチュードに見ていた欲望と同じ種類のものではないか。
個々人の特異性を保持しつつ、潜在的な群衆(マルチチュード)の<共>を顕在化させる機能。それによってアドホックな社会運動を生成し、<帝国>=グローバル資本主義&生権力的主権に対して単発的に抵抗攻撃を放ち続ける。その群衆のうちにいる個人は、それぞれの倫理観や義務感から<帝国>への抵抗運動を起こしているというよりも、そのことが彼らに生の欲動を満足させるものであるからそうしているのだ。
ということを夜中にtwitterでつぶやきかけて、長くなりそうなので久しぶりにこちらのブログに書いてみた。あくまでアイデアのラフスケッチ(メモ)です。
twitter民主主義論はよくあるけれども、ネグリのマルチチュード概念と結びつけてtwitterを語る論はまだあまり見かけない。マルチチュードなんて一部のマルクス主義者のいうユートピア的な議論だと思われている。そしてネグリ論者たちもこのムーブメントをうまくつかみきれていない。この隙間をついて両者を結びつける論を展開してみたいものだ。