書評:『帝国の条件』 (1)

帝国の条件 自由を育む秩序の原理

帝国の条件 自由を育む秩序の原理


この本のなかの橋本努の意図は、通俗的ネオコンネオリベ批判を退け、
「洗練されたネオコン」+「洗練されたネオリベ」=「良い帝国」という言説を形成することだ。


言うまでもなく、近年ネオコンネオリベは大変に評判が悪い。
ここ二十年間のアメリカ一極支配を支えてきたこの政治的・経済的思想は、
アメリカのアフガン・イラク統治の失敗とサブプライム・ローン・バブルの破綻によって、
もはや時代遅れになったと一般的に考えられている。


しかし、橋本はこの思想的潮流に対して異を唱える。
果たしてネオコンネオリベとはそれほど簡単に批判に敗れてしまう思想であろうか?
否、ネオコンネオリベはもっと深く、現代社会に生きる我々の価値観を規定する思想である。
誰もそれほど容易にネオコンネオリベを批判し尽くすことはできないはずだ。


そのような通俗的ネオコンネオリベ批判、を逆に批判し、
ネオコンネオリベを洗練させた思想に仕立て上げる方途を考えようというのが橋本の狙いである。
もちろん橋本は安易なネオコンネオリベ支持者であるわけではない。
ネオコンネオリベの思想的に最良な部分を汲み取りつつ、両思想の思想的限界を指摘し、
その矛盾を乗り越えるための道標(「良い帝国」への道標)を示すのが橋本の戦略である。


まず通俗的ネオリベ批判について、橋本はこれを
(1)ネオリベ思想に包摂されるもの
(2)ネオリベの企てを補完するもの
(3)ネオリベのダミーとなるもの
(4)神義論批判として徹底したもの
の4つに分類する。


(1)に含まれるのはたとえば「第三の道」・「福祉多元主義」・「新重商主義」・「ワシントン・コンセンサス批判」・「教育政策批判」など、(2)に含まれるのはたとえば「世界社会フォーラム」の思想、(3)に含まれるのはたとえばフーコー派によるネオリベ批判などである。


橋本はこれら(1)〜(3)の思想内容を紹介しつつ、それらはいずれも本質的な意味でのネオリベ批判にはなっていない、と判断する。むしろそれらはネオリベに包摂されるか、ネオリベを表面または裏面から補完するものであり、その意味でそれらのネオリベ批判はいずれもそれ自体がネオリベラリズムの思想の範疇にある、ということになる。


ネオリベ批判がいつの間にか反転してそれ自体より一層強化されたネオリベになる、という反転の構図はしばしば指摘される(例えば鈴木謙介サブカル・ニッポンの新自由主義』、稲葉振一郎『経済学という教養』)。最近では、「希望は戦争」を書いた赤木智弘氏が「すべての労働者が非正規雇用になるのがいい」という城繁幸や八代尚久らの考えとまったく同じ主張になってきているのが良い例だろう。


橋本の分類と批判が適当なものであるかどうかはここでは省略する。興味のある方はこの本の第5章を読んでみてください。(個人的には分類の仕方にやや無理があるような気がするところもあるけど、それはさておき)


(1)〜(3)と違って、橋本が本質的なネオリベ批判になっていると考えるのが(4)神義論批判である。神義論批判とは聞き慣れない用語だが、おそらくその内容は橋本自身が考えたもの。
橋本によれば、ここで「神義論」とは、人々の幸福や不幸というものがいかにして正当化されるのか、という問いをめぐる議論である。つまりネオリベ批判としての神義論とは、「私たちはネオリベ体制のもとでは自分が幸福であることを証明できない」ことへの批判であるといえるだろう。


橋本は神義論の不可能性をA.「真価(dessert)論」B.「信念(belief)論」の二つの観点から説明する。


A.「真価論」とは「努力に値する社会」「頑張れば誰もが報われる社会」「人が生まれによって差別を被らない社会」を理想とする立場から幸福の神義を与えようとするものであり、ネオリベラリズムはこの幸福性を正当化することができない。なぜなら至
上主義を掲げるネオリベラリズムは、不可避的に様々な面で格差・二極化を容認する思想であるからだ。


B.「信念論」とは「コミットメントすべき道徳的な価値をもつ社会」を理想とする立場から幸福の神義を与えようとするものであり、ネオリベラリズムはこの幸福性もまた正当化することができない。なぜならネオリベラリズムは超越的な価値観(道徳・倫理)を設定しない思想であるため、「コミットメントすべき道徳的な価値」を社会的に設定することを拒否するからだ。


以上二点の神義論の不可能性にネオリベラリズムは直面していると橋本はいう。ここでネオリベラリズムが「人々の幸福さ」を証明(正当化)できないことは、必ずしもネオリベラリズムの絶対的な短所であるわけではなく、むしろネオリベラリズムの長所の裏返しであるというべきだろう。A.市場競争の結果としての格差を容認すること、B.超越的価値の設定拒否の結果としての道徳的価値設定を諦めること、はむしろネオリベラリズムの長所であるからだ。


さらに橋本は第三の不可能性、C.「潜在能力(potensia)論」からのネオリベ批判を展開する。それは幸福を「人間の潜在的可能性の全面開花」という初期マルクス的なテーマにおいて理解しようとする立場から、ネオリベラリズムの神義論の不可能性を指摘するものである。つまり、ネオリベラリズムは諸個人の潜在的可能性を最大限に引き出すことを理想に掲げながら、現実にはそうできていない(それを阻害している)点に最大の問題点がある、というのが橋本の考えである。


では「デュナミスの快楽」に満ちた「人間の潜在的可能性の全面開花」を実現させるためにはどうすればよいのか?
答えは簡単。より一層ネオリベラリズムの展開を加速させればよい、のである。
つまり、ネオリベラリズムの動きを封じ込めようとするのではなく、むしろネオリベラリズムの動きをさらに加速させることで、C.「デュナミスの快楽」に満ちた「人間の潜在的可能性の全面開花」を実現させ、その結果として、A.「人が生まれによって差別を被らず、頑張れば誰もが報われる社会」とB.「コミットメントすべき道徳的な価値をもつ社会」を発展的な意味で実現させよう、というのが橋本の戦略である。


つづく。